砂の万灯

八雲神社の夏の祭礼
さいたま市指定無形民俗文化財

祭礼日 天王様(御祈祷のみ)7月14日
万灯祭り 7月14日前後の土曜または日曜

起源と由来(天王様と万灯祭り)

砂の万灯祭りは7月14日の天王様(祇園祭)で万灯を奉納したことに始まります。天王様は八雲神社の祭神である牛頭天王(ごずてんのう・素戔嗚尊)を祀り、疫病や災厄を鎮めるための祭りです。

伝説によると牛頭天王が南方へ行く途中にある村人に一夜の宿を頼んだのに断られ、代わりに兄の蘇民将来という人が宿を貸しました。その後、弟一族は疫病で死滅し、兄の蘇民将来一族は代々にわたって災厄から免れたと言います。素戔嗚尊もこうした荒々しい霊魂を持つことから民間信仰では牛頭天王と素戔嗚尊は同じ神であるとみられ、八雲神社でも天王様の祭礼が行われてきました。

昭和39年頃の万灯祭り

砂の万灯の起源は定かではありませんが、卓享2年(1685年)に砂村の藤助の家に旅で病んだ六部(りくぶ)という今でいう官僚が宿を求めました。藤助家族が看病をして全快。お礼にトウモロコシを使って万灯の作り方を教えたという言い伝えがあります。それを他の6軒にも教え7軒で祭りをするようになり、それが源流となって現在も7つの万灯組に受け継がれています。万灯は神様が降する際の目印とされています。

昭和天皇が崩御された年に自粛をしてしばらく開催しませんでしたが、その12年後に痛んだ部材を修理・新調して復活しました。


無形民俗文化財 7基の万灯

砂の万灯は祭り全体ではなく、「万灯組」と呼ばれる7つの組がそれぞれ万灯を所有しており、全ての組が保存会としてさいたま市の無形民俗文化財の指定を受けています。
万灯組はそれぞれの家系で代々受け継がれ、分家以外の新参者は加われないしきたりがあります。そのため近年では世代交代で後継ぎがなく、氏子の高齢化もあり抜ける家も多く、昭和の終わり頃には各組20軒以上だったものが今では10軒前後となり、中には数軒で守っている組もあります。
また喪中の家は「ぶくがかかる」といってその年の祭りには関わることができません。このままでは伝統を後世に残すことが難しいため新たな形を摸索しています。

万灯の仕組み

万灯の高さは約6メートル、中央の切り文字に灯りをともした装飾部分を「一万灯」といい、その上に[花挿」を置き、四方に開く形で花を咲かせています。最上部には欄干を置いた山台に人形を配し、10以上の部品を1本の柱に挿す形で立てます。重さは20kg近くになります。紙や布が多く使われているので雨に弱く雨が降りそうな時は急いで片付けなければなりません。

また、外部からは見えませんが人形の頭や手足は桐塑技法(江戸時代に広まった雛人形などの製作技法で桐の木粉を生麩糊で固めて整形、貝殻の粉を水で溶いた胡粉を塗ったもの)で作られています。

竹の胴体に衣装を着つけます。古い部材は江戸時代から使っているもので、毎年補修を行っています。

挿し花は毎年作ります。薄い和紙の四方を赤く染めて花弁を付けたものを竹棒に紙テープで巻きつけます。緑は葉を表し、1本に7個の花と葉です。祭り後は数枚を持ち帰りそれぞれの家の神棚に飾ります。縁起物としてかつては見物客がこぞって奪い合い、半分近くがなくなることもあったそうです。


祭りの進行

前日

朝8時頃から祭事委員や当番が名越の祓いの鳥居を片付け、注連縄を御神木の大ケヤキに巻きます。境内では御仮屋やお囃子の山車を組立たり、交通規制標識の設置準備などをします。

万灯組は前日までに部材を蔵から出し、人形の着付けや花などの飾り付けをします。昔は宿当番の自宅で行っていましたが、現在は近くの東大宮自治会館をお借りしています。

当日

※時間や内容は暑さや混雑、天候により変更になることがあります

15時頃
各万灯組の万灯を境内に建立します。
昔は宿当番の家から組み立てた状態で一人で担ぎ、交代しながら運んだと言います。しかし20キロkg以上の重さでパランスがとりにくく、電柱や車などの障害が多いために今は部分ごとに運んで境内で組み立てるようになりました。

16時頃
御囃子奉納と御祈祷
砂囃子連のお囃子で祭りが始まり、宮司が祝詞奏上などの儀式を行います。

17時頃
神輿渡御/山車巡行など
大人神輿も子ども神輿も氏子だけでなく、皆さんが飛び入りで担いで頂けます。
山車は子どもたちが近所を引き回します。(引き回しをしない場合もあります)
また、皆さんに楽しんで頂けるように新たな取り組みもしていく予定です。

日没後、あたりが暗くなると提灯や万灯に明かりが灯され独特の雰囲気が漂います。

20時頃

一本締めを行い祭りの幕を閉じます。


昔の万灯祭り

昭和39年頃の万灯祭り

記録によると昔は北の村境(現在の上尾市原市の手前)まで7基の万灯を担いで渡御をしていました。祭りも翌朝まで夜を徹して行われていたようです。


令和7年の開催告知ポスター